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仁川開港場:階段として残った国境 · 2

ひとつの丘に引かれた三つの租界

第2話 · 境界階段を歩いて越える

FitTrip編集部 · 2026.07.20

開港直後の仁川には租界が並んで設定された。1883年の仁川日本租界条約でまず日本租界が定まり、翌年に清国租界と各国共同租界が続いて、狭い丘ひとつが複数の国の管轄に分割された。今日その境界は清日租界地境界階段として残り、階段の東側が日本租界、西側が清国租界で、上は各国共同租界内の万国公園(現・自由公園)へつながる。階段の左右で建築の肌理が変わることが、この層を目で確かめる方法だ。租界は1914年の各国居留地撤廃で制度としては消えたが、都市の骨格はそのまま残り、いまの動線を規定し続けている。

開港は港を開くだけの出来事ではなかった。港の隣の土地を分けることでもあった。

1883年、そして翌年

1883年の仁川日本租界条約で、外国人居留地の一部が日本専用の租界と定められた 事実。翌年には清国租界と、複数国が共同で使う各国共同租界が続いた 事実。結果として狭い丘ひとつが複数の国の管轄に分割された。租界とは開港場のなかで外国人が居住し行政・警察権を行使した区域だから、事実上、都市のなかの都市だった 推定。

継ぎ目を歩く

その継ぎ目が清日租界地境界階段である。階段の東側が日本租界、西側が清国租界で、階段を上れば各国共同租界内にあった万国公園 — いまの自由公園 — へつながる 事実。実際に歩くと階段の左右で肌理が違う。一方は中華風の装飾と赤の色調が、もう一方は別の文法が残る 推定。この層を目で確かめる最短の方法は、階段の中腹に立って左右を見比べることだ。

制度は消え、骨格は残り

租界は1914年の各国居留地撤廃によって制度としては消えた 事実。しかしその時に引かれた道と地割の骨格は残った。今日この街を歩くとき、なぜ道がこう折れるのか、なぜ丘の上下で性格が分かれるのかは、その多くがあの時代の線から来ている 推定。

覚えておきたい視点

ただしこの層をロマンだけで読まないほうがよい。租界は交流の場であると同時に、不平等な条約の産物でもあった 推定。階段はその二つを併せて残した場所であり、第9話で扱ういまの問いも結局、この都市を誰がどう描き直すのかへつながる。

よくある質問

租界とは何ですか?
開港場のなかで外国人が居住し、行政・警察権を行使した区域です。仁川には日本租界、清国租界、そして複数国が共同で使う各国共同租界がありました。
境界階段はどこにありますか?
中華街と自由公園のあいだの丘にあります。階段の東側が日本租界、西側が清国租界で、階段を上ると自由公園へつながります。
租界はいつなくなりましたか?
1914年に各国居留地が撤廃され、制度としては消えました。ただしその時つくられた道と地割の骨格はいまも残り、街の構造をなしています。

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