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大稻埕:敗れた者が築いた港 · 3

ニューヨークへ渡った烏龍茶

第3話 · この通りを豊かにした産業

FitTrip編集部 · 2026.07.20

大稻埕を豊かにした産業は茶だった。イギリス商人ジョン・ドッド(John Dodd・陶德)は1867年に烏龍茶をマカオへ試験販売して成功し、1868年には厦門と福州から職人を招いてここで烏龍茶を精製し、アメリカへ輸出を始めた。1869年には二隻の船で2,131担の茶をニューヨークへ直送して好評を得、「Formosa Oolong」というブランドが定着して台湾茶産業のブームが始まった。ドッドは台湾烏龍茶の父と呼ばれる。このブームが埠頭と商家を、そして第4話で見る華やかな建築を生み、いまも通りには自ら焙煎を続ける老舗が残る。

大稻埕はなぜあれほど華やかな建物を建てられたのか。答えは一枚の葉にある。この通りの富は茶から来た。

1867年から1869年まで

イギリス商人ジョン・ドッド(陶德)は1867年、烏龍茶をマカオへ試験販売して成功を収めた 事実。翌1868年には厦門と福州から職人を招いて烏龍茶を精製し、アメリカへの輸出を始め、そこに「Formosa Oolong」という名を付けた 事実。そして1869年、二隻の船で2,131担の茶をニューヨークへ直接送り出した 事実。この直送が好評を得て台湾茶産業のブームが始まり、ドッドは台湾烏龍茶の父と呼ばれることになる 事実。

なぜよりによってここだったか

茶樹は大稻埕では育たない。それでも茶産業の中心がこの通りになった理由は位置である。1860年の淡水開港以降この川辺の埠頭が台北の玄関となり、北部山地から下りた茶葉がここに集まって精製・包装され、船に積まれた 事実。つまり大稻埕は産地ではなく、加工と輸出の結節点だった 推定。

通りに残った匂い

この産業の層はいまも嗅覚で確認できる。迪化街一帯には自ら焙煎を続ける古い茶商が残り、時間が合えば焙煎の匂いが通りへ流れ出る 事実。漢方と乾物の匂いのあいだに混じるその焙じ茶の匂いが、19世紀の輸出港がまだ完全には終わっていない証拠だ 推定。

富が残したもの

重要なのはこの富がどこへ行ったかである。茶貿易が生んだ資本はやがて建物になった — 次の話で見る、一本の通りに四つの時代が重なった商家建築がその産物だ 推定。そして第8話で見るように、その富は建物だけでなく思想と運動にも資金を出した。

よくある質問

なぜ茶が大稻埕で精製されたのですか?
1860年の淡水開港でこの川辺の埠頭が台北の玄関になったからです。北部の山地から下りてきた茶葉がここに集まり、精製・包装されて船で出ていきました。
「Formosa Oolong」とは?
ドッドが1868年以降アメリカへ輸出する際に付けたブランド名です。1869年のニューヨーク直送が好評を得たことで、台湾茶が国際市場で独自の名を持つようになりました。
いまも茶を焙煎する店はありますか?
あります。迪化街一帯には自ら焙煎を続ける古い茶商が残っており、運が良ければ通りで焙煎の匂いを嗅げます。訪問前に営業日の確認をおすすめします。

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